「声をあげよう」
「自分の意見を述べよう」
「大きな声で主張しよう」
というような発言をSNSでよく見かけるようになったけど、あれって一体誰に向かって言ってるんだろう。

日本でも世界でもいろんなことが起きて、
環境や生活がめまぐるしく変化して、
これまでの価値観が疑われて、
かつてのやり方や常識が通用しなくなっている。
見て見ぬふりしているうちに世の中がおかしな方へどんどん傾いていく恐怖や、
無知であることを大きな権力に利用される可能性もある。
だから知ることや考えることや意見を持つことはすごく大事。それは分かる。

でも「声をあげよう」って一体誰に対して言ってるんだろう。
広いインターネットで、不特定多数の人に向かって言ってるの?
家族や友達や同僚、身近な人たちにも同じように言ってるの?

SNSは自由なツールであり、用途は個人が決めるもの。
黙ってるけど自分の考えに基づいて行動してる人もいるし、
かわいい動物見る用にしてるけど明確な意見を持ってる人もいる。
考えや気持ちを言葉にするのが苦手な人もいるし、
慎重に判断材料を集めている最中の人もいる。
過去に意見を述べることが許されなかったせいで苦しんでる人もいるし、
心の傷のせいで問題を直視できない人もいる。
ネットでは発言しないだけで、リアルで熱く話をしている人もいる。
思想強めなROM専もたぶん結構いる。

場合によっては悠長なことを言ってられないのも分かる。
でも声をあげてない人のことを一括りにしないでほしい。
見えないところで動いていることを、
まるで無のようにみなさないでほしい。
黙認じゃないし、ゼロじゃないし、
ちょっと待って今考えてるからってこともある。
今ここでは言わないだけ、違う場で言うしってこともある。

雄弁は銀、沈黙は金という言葉があるけれど、
別に雄弁も沈黙もどちらも金でいいと思う。
各々が選択して決めればいい。
よっぽど悪意があるとかモラルに反するとかでない限り、
あいつは金だとか銀だとか他人が決めることではない。

主張をする権利、自由に発言する権利と同じように、
保留する権利や、TPOに応じて言わないことを選ぶ権利も
もしかしたらあるのかもしれない。

極端な話、キャンプでもディスコでもスポーツでもなんでもいいんだけど、
「楽しもうよ!」と言われても、楽しめない人はどうしたって楽しめない。
さっき財布を落としたとか、足を骨折しているとか、飼ってる猫が死んだとか、極度なあがり症とか、嫌いな人がその場にいるとか、それぞれ事情がある。
でもタイミングやコンディションによっては、誰も知らないところで楽しんでいるかもしれない。
もしくは、楽しみたいのに楽しめない自分はダメだ…と自分を責めてしまうかもしれない。

インターネット上で、政治や国際問題や人権問題について発言をしてるかしてないかよりも、
一人の生身の人間として、当事者として、
できる限り向き合っているかどうかが大事なのであって、
それは外側から目に見えるわずかな部分だけでは分からない。

それより何より、少しでもラクしたいがために、
何も考えない、流されるということを当たり前のように選び続けている人や、
自分は意見を持っているという安心感のために、
人の意見を自分自身で咀嚼せずに、吟味せずに、
そのまま自分の意見であるかのように錯覚している人の方が
よっぽど毒が強いような気がする。
ただ、そういう人たちは、まったく自覚がなかったり、
習慣から抜け出す気がさらさらなかったりするので、
働きかけてもおそらく作用しない。
それに、そういう人たちがなぜラクしようとするのか、
自分自身で考えないのか、ということを深掘りしていくと、
そこに至る原因や、根深い何かに突き当たるだろうし、
いずれにせよ他人が誰かの考えや発言を強いることはできない。

そもそもどうしてこんなことを考えているのかというと、
インターネットってこんな場所だったっけ?
と物騒に感じることが増えて、
息が詰まりそうになることも多くなって、
それについて、なんか変だねと話をすることもあって、
「声をあげよう」という発言に対して
それって強要ですか?と神経質になることもあって、
でも私の場合それはおそらく根底に、
自分は自分でいい、これで合ってる、よし、
という気持ちが弱いからというのもあるのかもしれない。
とはいえインターネットの治安が悪くなってるのは
まぎれもなく本当のことだと思うけど。

だからなるべく脳内で、
「声をあげよう(もし良かったら)」
「自分の意見を述べよう(もし良かったら)」
「大きな声で主張しよう(もし良かったら)」
と変換するように心がけて、
自分は自分のペースで、言いたい時に言いたいことを言おうと思う。
言えよと言われて言うことことは、自分の意見じゃないから。