もうずっと昔、浪人していた数年間、受験のためにデッサンや油絵を描かなくてはいけないことが、すごく苦痛だった。

通っていた予備校は変わった場所で、私が絵を描かなくても怒られなかった。毎日手を動かして、上手な静物画や人物画を黙々と描くみんなのようにできなくて、自分は絵が下手くそだし、コツコツ努力もできないし、なんだかいつもつらくて、誰もいない狭い園長室で、何をするでもなくうずくまっていた。園長は時々現れては、いろんな話をした。私のことを茶飲み友達と呼んだ。一通り喋ると「ボクもう疲れちゃった」と敷地内にある自宅に帰っていった。

なんかグラフィックとかかっこいいからという理由でデザイン科を志望していた私に

「エリちゃんはねえ、デザイナーにはなれないんだよ、デザイナーは社会人だから、クライアントのいうことを聞いたり、時間を守ったりしなきゃいけないんだから。」と言って転科をすすめた。

「デッサン力っていうのは、上手に描く力のことじゃなくて、ものを見る力のことなんだよ。」

「うちの学校は、合格者を出す学校じゃなくて、芸術家を育てる学校なんだよ。それに別に絵描きにならなくたって、うちで学んだことや芸術的な感性が、生活の中で活きればそれでいい。」

園長はすごいことをたくさん言っていたけど、私は美術に思い入れがあったわけではなく、ただきれいなものが好きで、平均よりは絵が描けたし、勉強なんてこりごりだったし、とにかく東京に進学して家を出たかったから、園長のすごい話を、なんとなくで聞いていた。(それでも時間が経っても頭の片隅にずっと残っていて、それがすごい言葉だったと判明し、影響を与えてるんだからやっぱりめちゃすごい。)

大学に入って、みんな結構年下で、与えられた課題やモチーフに素直に取り組んでいる中、私は最初の授業すら途中で帰って家で洗濯をしたりしていた。大学なんて時間と場所があるだけ、と舐めた態度で全然行かなかった。それでも進級や卒業のために、何か作らなくてはいけなくて、私はなんのために作るんだろうと考えていた。でもそれ以上に、よくわからないつらさについて、よくわからないということについて考えていた。体内で行ったり来たりしているよくわからないことを形にすれば、その過程で、そして出来上がったものを見て、ちょっとは『わかる』ようになるかもしれないと思って、真っ暗な洞窟を進むような気持ちで『よくわからない何か』を作った。作るたびに『わかる』に変わって、目の前はどんどん明るくなっていったのです、なんてことはなくて、やっぱりずっとわからないままだった。しかも、作ったものより、それに添えてる説明文のほうが評価された。だんだん、もしかして言葉のほうが向いてる?と思うようになり、写真や映像や何か形あるものから離れて行った。仕事をするようになって、毎日毎日つらいと思いながら、何か作る元気もなく、時々言葉を書くので精一杯だった。

それから数年の間に、いろんなことがあって、友達とちゃんと向き合って、そのおかげで、自分とちゃんと向き合えるようになって、いろんなことが『わかる』ようになってきた。何も作ってなくても、人と関わることで、教えてもらったり、勇気をもらったりして、別人とまでは行かなくても、前の自分と今の自分は全然違うと思うし、真っ暗な洞窟だったのが、薄い霧くらいまでクリアになった。つらいつらい仕事もやめた。つらくてもどうでもいいという考えだったのに、ここにいるべきではないという決断ができるようになった。かつてなんらかの答えを求めて作ったものを今見てみると、すごくすごくよく『わかる』。よくわかるのに、ずっと前から答えは出てるのに、自分が盲目だったせいで、何も見えてなかった。向き合うのが怖くて、受け入れてなかったのかもしれない。

だから、見る人のために一応添えた説明文も、すごくぼかしていて、核心を避けていて、それっぽいことを書いときゃそれっぽくなってまあええやろくらいに思ってたし、ほとんどの人にはそれっぽい表面しか伝わらなかったと思う。

需要のあるなしは別として、自分ための記録として、昔作ったものの説明を、改めて具体的にしてみる。