『ポストに手紙を書く』
ポストにはいつもたくさんの手紙が入っているが、ポスト自身が手紙をもらう事はあるのだろうか。
ばかばかしい思いつきかもしれない。出した手紙は二度と私の元へ戻ってくることはなく、誰にも開封されることなく破棄されたかもしれない。
それでも私にとっては意味のあることで、手紙を投函しに行くことは、部屋の外の世界と繋がるきっかけになる。








昔から、サンタクロースは誰からプレゼントをもらうんだろう、と不思議に思っていた。同じように、応援団は誰かに応援してもらうことはあるんだろうか、とか、そういう疑問の延長上にポストもあった。
当時、毎日12時に寝て22時に起きるようなサイクルで生活していて、夜中に近所のコンビニに行く以外はほとんど外出していなかった気がする。誰にも会わず、声も発さずにいると、どんどん人とコミュニケーションをとることが『億劫』に、そして『怖い』に変わっていった。双方向がダメなら、残るはもう一方通行しかない。ポストはなんの反応もしないからその点は安心。それに、こんな普通ではないことをすれば、非日常の感覚を味わえる。その瞬間だけは、現実を直視せずにすむ。
でもそんなことより何より、一番大きなテーマは、たぶん『人に優しくしなきゃいけないという呪い』だと思う。その呪いが強くなりすぎて、目を向ける範囲は物にまで広がっていた。
頼まれたら断っちゃいけないと思っていた。
ひどいことを言われたりされたりしても、言い返さず、許さなきゃいけないと思っていた。
なんなら全部自分のせいだと思っていた。
嫌いな人に嫌いですという態度をとったり、関わらないことを選ぶのは悪いことで、どんなに嫌いでも親切にしなきゃいけないと思っていた。
ほんとに心からそう思っていた。
自分が地球で一番醜くて底辺で価値がないと思っていたから、断ったり、拒否したり、立ち去ったりする権利なんてないと思っていた。
だから、いつも知らない人にも親切にしていた。
ある日、大学の敷地内におかもちを持った出前の人がいたことがあった。建物の中に入ろうとしていたが、両手がふさがっていて入口のドアが開けられずにいるのを見かけ、私は息をするようにドアを開けた。脳で(大変そうだからドアを開けてあげよう)なんて考えることもなく、視神経から直接、手の筋肉にドアを開ける命令が伝達された。それくらい身に染み付いた当たり前の行動だった。出前の人はすごく驚いて、すごくうれしそうにしていた。大抵の人はここで、あーよかった。と思う場面だろう。でも私はその直後、号泣した。ものすごく泣いた。私は親切な心の優しい人間ではないと気づいてしまったから。相手にいい気分になってほしくて、困っている状況を解決したくて開けたわけじゃない。自分のように価値がない人間は他人のためにドアを開けるもの、そうしなきゃいけないと思っていたから開けた。それってもはや偽善と同じだ、サイテーだ、と思って一人で泣いた。
偽善というのはだいたい、いい人だと思われたいから、好かれたいからといった下心があったり、相手の状況はお構いなしに自分のメリットのため善い行いを利用する。私に下心はないものの、そこに思いやりはない。これも偽善みたいなもの?でも結果相手が喜んでたならそれでいいじゃないか、と思うかもしれない。でもその時の私は、思いやりのない善い行いが、相手をバカにした悪行のように思えた。すごく矛盾してるけど。もちろんバカになんてしてないけど、そういう気分になって落ち込んで泣いた。
とにかく『親切』や『人の役に立つこと』の度が過ぎていた私は、もはやポストにまでへりくだって、優しくしようとしていた。そうすることで価値がなくても許されようとしていた。
そうやって内心嫌だと思っていても、何でも受け入れたり、相手の思うように従ったり、断らなかったり、許したりしていると、横暴だったり、過激だったり、わがままだったり、こちらの意思を確認しない、尊重しない、自己中心的な人が寄ってくる。知り合って間もないのに、突然家に来て晩飯を食わせろと言ってきたり、知り合って間もないのに、突然家に来て、私に全く関係の無い雑務を押し付け去り、10時間後(しかも明け方)にまた現れたり、毎日のように電話をかけてきては、数時間ひたすら自分の話だけを一方的に喋って切ったり、私の人生の前半戦は、そういうことがしょっちゅうあった。何も難しいことではなくて、私がただ「いやだ」「むり」「できない」と言えばいいだけのこと。でもそれができなかった。
言われたことには絶対に従わないといけない、言われる前に察して動かなきゃいけない、機嫌が悪くならないように先回りして、考えて、とにかく相手の気分を害してはいけない。
これは、私が、小さい頃からずっと、母親に対してしてきたことだった。
3歳くらいの時に、うちのマンションに近所の親子が遊びに来たことがあった。あまりよく覚えてはいないけど、遊びに来た男の子が、うちの壁にクレヨンで落書きをした。気が付いた母親は、その場ではニコニコしていたのに、みんなが帰ったあとにひどく怒鳴った。「どうして止めなかったの!!!!!」
壁に絵を描いちゃいけないなんて、3歳は知らない。でも知らないかどうかは、もはや関係ない。知らなくても、やるしかない。言われたことを、言われる前に、大人と同じように。こうしたい、ああしたいなんてない。とにかく、この人の言う通りに、望むように、するしかなかった。従うしか選択肢がなかった。そうしないと怒鳴られる。叩かれる。(そうしても怒鳴られるし叩かれるんだけど。)
私が私の意思を尊重できるようになったのは、本当に最近で、自分のことをいじめる必要ないと気づいてからは、嫌いな人に親切にしたり、なんでも受け入れたりしなくなった。そこで初めて、やっと、自分が人に親切にすることに意味が生まれた。しなくちゃいけないからではなく、役に立たなきゃ価値がないからではなく、助けたいから、喜んでもらいたいからと頭で考えられるようになった。
たぶんもうポストに手紙を書くことはない。

ハミスチー