『家族写真』

 家族とは一体何なのか 

 戸籍や血縁関係、同居等、家族の定義は多々ある。
 ごく一般的な家族に見える家庭でも、内実問題を抱えていたりする。心の繋がりも持たず、支え合うことの出来ない家族は、表面的な関係であり、他人同然なのではないか、と私は考えた。
 そこで、他人と家族写真を撮ることにした。違和感があるように見えるだろうか、それともまるで家族のように見えるだろうか。
 家族のフリをすることは、意外と簡単で、思いの外難しい。それは、他人との家族のフリだけでなく、本当の家族との家族のフリでも同じことが言える。
 いくつかのご家族にお会いして、写真を撮り終えて、家族とは何かという答えの片鱗が見えた気がする。
 はじめに挙げた、機能していない表面的な家族は、他人同然という仮説には、「但し、第三者からの視点による」という注意事項を付け加えることにする。

 

 

なんかすごくむずかしい言葉を使ってて、今読むと頭にぜんぜん入ってこないからとばし読みしちゃう。要は家族とは…?ということなんだけど、家族って何?家族って一体なんなんだろう?という疑問がずっとあって、今もその疑問は続いている。血が繋がってたら家族なのかな?一緒に暮らしてたら家族なのかな?戸籍上家族だったら家族なのかな?

これらは全部家族写真なんだけど、どれも私が娘のフリをしてよそ様の家族の中に紛れ込んでいる。だからどれも家族写真じゃない。(本当は、うちの本物の家族写真も混ぜようかと思ったけど、とてもじゃないけど一緒に写真を撮るような家族じゃないし、実家に帰った時に一応試みたけどやっぱりダメだった。)

大学の同級生と、そのご家族にお願いして、貴重な休日に時間を作ってもらい、一緒に写真を撮ってもらった。(その家の娘さんに、シャッターを押してもらった。)当たり前のことだけど、家族ごとに全然空気感が違う。うちの家族は独特だけど、何も知らない人から見れば、いわゆる家族に見えるのかな?

世間から見た様子と実態って全然違うんだよね。家族もそうだし、それ以外も。そもそもみんな周りに興味ないから、そこまで本質を見ようともしないし、外部に対してもそれなりにとりつくろえる。違和感があっても、関係が浅ければ、変じゃない?なんて突っ込めないし。うちは友達から、近所から、どんな風に見えてたんだろう。
着飾った母と、無口な父と、優等生の娘?実際はヒステリーなスピリチュアルオタクの母と、何もかも見ないふりをするほぼアル中の父と、サンドバッグ役のゾンビ娘なのに。
夫婦喧嘩はしょっちゅう。怒鳴り声だけじゃ済まず、テーブルの天板を割ったり、包丁を向けたり、私はそれを泣きながら見てた。父は自室にこもり、怒りがおさまらない母は、大声をあげながら、私をぶった。私の頬は赤くなり、頭はたんこぶだらけだった。
数年前、同い年のいとこにその話をしたら、何も知らなかった、ごめん、と言われた。彼の目には、うちの家はとても順調に、問題なく見えていたらしい。ずっと。

外部とのつながりがある家なら、問題が起きても他人が介入することができる。親戚、友人、近所、警察…。でもうちは、誰も侵入できない城のようだった。実際家の中に人を招き入れることは、ほぼなかったし。世間から切り離され、取り残され、しかし周りからはあたかも普通のように見える家だった。一見普通に見えるからなおさら、誰も助けてはくれないし、私の気持ちや傷は、気のせい、大したことのないもの、自分でもそう思うしかなかった。

ほんとにパッと見じゃわかんないんだよ、何も。みんながうちを素通りしたように、私も多くを素通りしてきたと思う。幸せそうに見える、仲良さそうに見える、うらやましいとすら思う家族に、どんな歴史があって、どんな秘密があって、どんな歪みがあるか分からないのに、表面だけ見て安易に、幸せそう、仲良さそうと決めつける私は愚かだなと思う。それに、どう見えるかより、本人がどう感じるかが一番大事ということを忘れてしまう。

私は家族に恵まれなかったけど、私のことを家族のように思ってくれる人たちに運良く出会うことができて、とはいえまだ私が差し伸べてくれる手を躊躇なく遠慮なく強く握ることができなくて、ずっと継続してる不安な気持ちとか、すべてを安心して預ける方法が分からなかったりだとか、自分の2本の足で立ってなきゃいけないという強迫観念が抜けきらないだとか、問題はあるんだけど、でも少なくとも母より、父より、私のこと見てくれて、聞いてくれて、心配してくれて、尊重してくれて、応援してくれて、励ましてくれて、助けてくれて、愛情を持って接してくれる人たちがいるから、そういう人たちのためにも、元気にならなきゃいけないし、心を取り戻さなきゃいけないって思ってる。それって家族に対する気持ちみたいなものであってる?