障子

最近、人生の主導権を取り戻しつつある。暗黙の空気としてはびこっている「何者かにならないといけないレース」に自覚的になり、そこから降り、自分の人生でせいいっぱいですという態度を決めることで、逆説的にだけど何者かになろうとしなくてもきちんと自分として生きていけるようになってきた。とはいえまだまだ途上だけど。

自分を掘るのがおもしろい。自分の興味や関心、思考、嗜好、仕事の向き合い方、人間関係その他もろもろ。へえ、俺ってそういう考え方もできたのねという発見がこの歳になってもあって、毎日がおもしろい。生きてるだけでログインボーナスがもらえ続けているような日々を過ごしている。

the band apartというバンドのとある曲の歌詞で「目の前の誰かより指先の文字に夢中」というフレーズがあって、その曲を初めて聴いた時からずっと、このフレーズに傷つけられていた。そうはなりたくないな、と、確かにそうだよな、がないまぜになって、結果的には自分を責めている。

いまだにそう。妻が話しているのにスマホを見ながら話を聞いてしまうことがある。とりあえずスマホ置かんかい、と思ってもそれが持続しない。

指先の文字よりも目の前の誰かにきちんと夢中になりたい。それだけじゃなくて、もっとこの世界に夢中になりたい。自分の一挙手一投足に夢中になりたい。人生のマルチタスクをやめたい。聞こえているけど聴いてはいない音楽を、耳と心に取り戻したい。きれいな空を見て写真を撮って満足するんじゃなくて、ちゃんと空を見て、きれいだなと思って、そのことに満足したい。ものをよく噛んで食べたい。おいしいものをきちんとおいしいと思いたい。季節の移ろいを自覚したい。平凡な日常に日々ささやかに驚きたい。

それってつまり、何事も「あじわう」ということなのではないかと思い至った。

ひとまずいま聴いている音楽を、耳であじわってみる。歩いている場所の景色を目であじわってみる。食べ物をきちんと五感であじわってみる。そういうことを繰り返していたら、指先の文字なんかよりもよっぽど、目の前のなにかに夢中になれるのではないか。なれるのではないかっていうか、夢中になりたい。そのくらい世界がおもしろいものだということは一応知っている。

ということで、ひさしぶりにDawn Societyであじわいの記録を綴ろうと思っています。のんびりあじわっていきたいと思います。