明日から1年間、日記を書くことにした。
先日39歳になった。このところ、今の記憶のまま大学時代に戻ることをわりと本気で空想する。大学入学ももう20年前のことだ。20年前ーー2000年には東日本大震災はもちろんのこと、アメリカの同時多発テロもまだ起こっておらず、携帯はいまより不便で(なんてことを当時は思っていなかったけど)、将来妻になるひとにもまだ出会っていなくて、おそらく今よりも体力があり、痩せていて、ギターも下手で(今でも大してうまくない)、絵を描くのが好きで(もうすっかり描かなくなってしまった)、社会経験に乏しく、スキルもなく、それと引き換えに、未来だけがあった。
不惑を目前にして、「未来がある」という感覚が非常に薄れているのを痛感する。何も持っていなくて未来だけがあるのと、いろんなものを身につけてきた代わりに未来への期待が薄れているのとでは、どっちがいいのだろう? 「今の記憶のまま過去に戻る」なんて都合のいいことを空想するのは、やはり未来への希求があるからなのだろうか。
あれから20年経って今、安心と不安と諦めが33.3%ずつあるように感じる。ようやくこの割合に到達できた、という気もする。これから40代に入り、50代を迎えるというときに、このバランスがどうなっているのか。できれば安心が増えていてほしいと思うけれども、案外不安が幅を利かせているかもしれない。もしかしたら諦めが全てを覆っているかもしれない。人生の折り返しに差し掛かろうとするこの1年で、何がどう変わっていくのだろう。変わるというのとは違うな。どう漂っていくのだろう。
自分自身を1年観察することで、その漂流に少しだけ自覚的でいたい。これから綴られる大半は、おそらくは取るに足らない生活の記録になると思う。取るに足らない生活が、安心や不安や諦めをどう増やしたり減らしたりするのか。1年経って読み返したときに、何かがわかればラッキー、わからなくてもそれはそれでいい経験になる。現実的にやっていくことでしか未来への期待が持てないのが悲しくもあるけど、現実的にやっていくしかない。
初老