デジタルの世界では「失敗作」はあんまり残りにくくなったようにおもう。すぐに消してしまえるし、いちばんよくできたものだけを残しておけばいいからだ。
それでも、これは残しておきたいからという気持ちだけで撮った写真。上手に撮れたかどうかなんて、気にしなかった写真。失敗作というほどでもなくても、だれかに見せようとはおもわなかった写真がある。ここでそれらを、しずかに振り返ってみようとおもう。
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美術館でほんの少し働いていたときに、昼休み散歩へ出て撮った写真。たしか入場料を支払ったような気がする。これがどこかわかる人にはわかるかもしれない。
いまからベトナムへしばらく旅行へ、というときに、これを読んでいたのがおもしろかった。
この写真を撮ったときはなにの遊びをしているかわからなかったけれど、いま見たらこれはたぶん、マンカラだ! 時を経てわかったのがうれしい。
人の願いを写真に撮るなんてあんまりよくない行為だけれど、「ゃ」の小ささがあまりにかわいくて撮った。
「見えない部分にシロクマがいる」という写真。
左の文字でホイアンで撮ったのかなというのがぎりぎりわかるレベル。お皿とかに詳しい人がみたらこれはベトナムだ、とすぐにわかるのだろうか。
恋人がいて幸せな人はみんな「ひたち海浜公園にネモフィラを見に行っている」というイメージがあったから、どうしてもいつかすきな人とネモフィラを見に行ってみたかったのだった。
これを飲んだあと、ありえないほどおなかをこわした。味はおいしかったし、とんでもなく暑かったからしばらくのあいだ涼むことができてよかったけれど。
これは鳥を撮っている。こんなにピントが合わないことってあるのだな。観光地でめずらしい鳥とかがいてみんなが写真を撮っているとき、それにつられてじぶんも撮ってみたりするけれど、しばらく経ったあとに「あれはなんの時間だったんだろう」とおもうことが多い。
くらげを撮った。海と宇宙ってほとんど似ているのかも、とおもったりした。
エラーメッセージがあれば撮るようにしている。なんて書いてあるのかわかる人がいたらおしえてほしい。むかし、タイ人の友だちに「このTシャツってなんて書いてあるの?」とメッセージを送ったら既読にはなったけれど返事がこなかった。あとからそれは、「レッドブル」と書いてあっただけだと知った。あまりにくだらなくて返す気になれなかったのだろうな。
「レパロ」をしようとしているところ。わたしはルーナ・ラブグッドが好きだから、彼女の杖を持っている。
(つづく)
校閲者として働いたり、文章を書いたりして暮らしています。