ぶんぶんパンダ

村上春樹をきちんと読んでみようと思って、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を買った。10年前くらいに、誰かに勧められた記憶がぼんやりとある。村上春樹は、父の本棚にあった『ノルウェイの森(上)』しか読んだことがない。(下)はどこか聞いたら、「無い、読まなくていい」と言われた。その時は「そっか、読まなくていいんだ」と思ったけれど、読まなくていいのかな?姉の本棚には『風と木の詩』の最終巻が無かった。あまりにも悲しいからだそうだ。
少し読み進めたところで、主人公が「やれやれ」と言ったので、本当に言うんだ、と嬉しくなった。しばらくしてまた「やれやれ」と言ったし、いい感じの女の子とセックスをしたので嬉しくなった。インターネットに散見される村上春樹を揶揄した「やれやれ」で想像していた「やれやれ」と、本家の「やれやれ」はちょっと違うように感じた。百聞は一見にしかずだ。


精神科で話すことがないので、質問を用意していくことにした。何度も読んだ認知行動療法の本を参考に、質問を考える。本に載っていることをもとに質問を考えるので、もちろん答えは分かりきっているのだけれど、答えを得ることが目的ではないのだ。それっぽい質問をすることで、自分の中にあるトラウマその他もろもろを開示しないまま、なんとなく診療っぽい時間にするためだ。
質問をすると先生はとても喜んでくれた。とても良い質問をしてくれました!と褒めたあと、それはこうしてこうするといいですよ、と教えてくれた。それは何度も本で読んだようなことだったけれど、なんだか心にすっと入ってきたし、次の診療の時にもこの話題で話せそうだったので、質問を考えてきて本当に良かったと思った。本に書いてあることを自分で読むことと、人に言ってもらうことって違うんだなと思った。百読は一聴にしかず(今作った言葉です)だ。


いつもの美容室で、いつもの担当さんに、「いつもの感じで」とお願いする。いつもは「は~い」と言って施術してくれるのだけれど、今回は「う~ん」と首を傾げたあと、ヘアカタログを持ってきて、こういうのもあるよ、ちょっと前が長いのとか、ちょっと後ろが短いのとかあるよ、と見せてくれた。何か気を遣ってくれてるのかな?と思ったけれど、私は本当にいつもの感じで良かったので、再度「いつものでいいですよ」と答えたのだけれど、担当さんは「え~?う~ん」と渋っている。
あ、もしかして担当さんが「いつもの」に飽きちゃったのかな、と思い、「やっぱり今日はこういうのにしようかな」と適当にカタログを指さす。すると担当さんの顔がパッと明るくなったような気がして、「今日はこれにしますか!は~い!」と元気の良い返事が返ってきた。


相手を尊重することは、「ただ見ること」のような、静かに包みこむようなそんなことだと思っていたけれど、ちょっとした質問をするとか、お願いをするとか、我慢しないで頼るとか、そういうことも含まれるのかもしれないという、当たり前かもしれないことに気づくのに10年とか20年とかかかってしまう。