去年の1〜2月は尋常じゃない忙しさで、日に日に心が削られていった。ようやく仕事が終わりという日、映画のチケットを予約した。映画館に一歩一歩近づくにつれ、心の体力が少しずつ回復していくのがわかる。芸術が心に効く、というのをこれほど体感したこともなかった。
映画は特別よくも悪くもなかったが、それでも豊かな2時間を過ごすことができた。心地よかった。この体験をして以来、ちゃんと映画館に足を運ぼうと思うようになった。
福岡市にはミニシアターが2館ある。最近は古い映画の4Kリマスター版が上映されがちだが、それは名作が保証されているということでもある。1〜2か月に1回は映画館に映画を観に行く。以前は妻を誘っていたが、断られることが多かったので、最近は特に誘うこともなく自分ひとりでたのしんでいる。
映画館で映画を観ると、スマホを見ないし、映像は家で見るより大きいし、音も家よりはいいし、とにかく映画に集中できる(せざるをえない)のがいい。現代は便利すぎて、家で結構な数の映画が特に追課金をせずとも見られるようになっているけど、そのぶん雑に見てしまうことも多い。いつでも見られると思って「いつか見る」の箱に入ってしまったが最後。見ない。レンタルビデオ屋で観たい映画を借りてきて、1週間以内に返さないといけないからどこかできちんと時間を作って、集中して観るというくらいの便利さがちょうどよかったのかもしれない。現代は便利が過ぎる。もう少し不便になりたい。
とはいえ映画館の予約は便利なのがありがたい。自宅に居ながらにして、映画を選び、座席を選び、支払いまで済ませられる。当日、その時間までに映画館に行くだけでいい。そういう手間はどんどん簡略化されていい。
先日観たレオス・カラックスの『汚れた血』は非常によかった。まあ『汚れた血』がいいなんてことは、すでに多くの方々が言ってるだろうけど。
『汚れた血』が撮られたのは1980年代の中頃で、そのころにはまだ今みたいな映像の編集技術もなければデータじゃなくフィルムだったわけで、要するに「この画が撮りたい」と思ったら、きちんとその画が撮れるようにセッティングしなければならなかった。後からどうにでも編集できるというものではなかった。そういう、1回1回の撮影に込めた想いというか、情熱というか、執念というか、そういったものが映像から伝わってきて、とにかくすごいものを観ている、という気持ちになった。2時間ずっと、動き続ける美しい絵画を観ているようだった。
こういうものを、家とは違う場所、家とは違う環境で、集中してあじわえる時間を過ごすのは、一種の贅沢だと思う。そういった時間・空間は、まだ日常のなかに残っている。だけどこれまでもそうだったのだから、これからもどんどん減っていくのだろう。生きているうちになくなってしまうかもしれない。文化を絶やさないためにみたいな大それた気持ちじゃなく、単なる個人的嗜好として、あじわえるうちにはこの贅沢をあじわっておきたい。

初老



